プロ野球選手・大家友和が発起人となり設立されたNPO法人 Field of Dreams
『スポーツを通じての社会貢献』を理念に活動をしています。

 


 
NPO法人 Field of Dreams
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Tel: 077-566-8016
Fax: 077-566-8019



   FOD は、スポーツを通じてより多くの子供たちに成長と挑戦の場を提供していきたいと思い活動を続けています。なぜなら、私達は志を高く持ち自分の夢を実現しようとする意欲溢れる子供たちが社会の活性化に貢献していくものと信じているからです。
  私達の理念である「スポーツを通じた社会貢献」にご賛同いただける方は、FOD の活動に是非ご参画ください。
  皆様のご理解とご協力をよろしくお願い申し上げます。

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NPO 法人 Field of Dreams 事務局(担当 福村)
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「日本の若者に夢を持って生きてほしい。夢を追い続けてほしい」      by 大家 友和


大家友和ドリームツアーとは?
 2001年から始まり、今年で10回目を迎える大家友和ドリームツアーは、毎夏に子供達をアメリカに招待し、大家選手との触れ合いを通じて、夢を実現する努力の大切さ、素晴らしさを伝えています。

『大家友和の原点』
 大家友和(おおかともかず)、34歳。1976年、京都で未熟児として生まれた大家は、幼少期は体が弱く、病気と格闘する日々を送る。
8歳の時に両親が離婚し、以後、男ばかりの3人兄弟(大家投手は2男)は母親1人の手で育てられる。家計はお世辞にも楽とは言えず、この経験が大家の人生を決定づけることとなる。運動音痴でスポーツ嫌いだった大家が、当時大流行した野球漫画「ドカベン」に触発されて急に「野球をやりたい」と言い出したのは小学校3年生の時だった。大家はこの時、多くの野球少年がそうであるようにプロ選手になることを夢見たが、その理由は他の少年と違ったものであった。
  「プロになって家族の暮らしを楽にしたい」
  家計を助けたい一心から小学校・中学校と野球を続けた大家は、創設間もない京都成章高校に進学(学費は兄・健一からの援助だった)。健一は、弟を私学に通わせるために、稼ぎの良い職場を求めて転職。学費補助に際し、健一が弟に出した条件がある。
  「高校野球の集大成として、プロ野球の入団テストを受けること」
  高校入学後、大家は控え投手として野球部時代の大半を過ごす。しかし、控え投手でいる間も、兄との約束、そして自分自身の夢に向かい弛まぬ努力を続けた大家は、高校3年の最後の大会前、遂にエースの座を掴む。

  背番号1を背負った最後の大会では惜しくも甲子園出場を逃すものの、大家は兄との約束を果たし、1994年にドラフト3位で横浜ベイスターズに入団することになった。

『日本球界を後にし、単身米国に』
  1994年4月29日、大家は1軍デビュー2戦目にして早くも初勝利を手にする。
  順調にスタートした大家のプロ野球人生だったが、日本球界で挙げた勝ち星は、この1勝だけだった。5年間在籍し、1勝2敗。これが、大家の日本球界での公式記録である。そして、1999年春、小さい頃からの夢であったメジャーリーガーを目指して大家は日本球界に別れを告げ、単身海を渡り、メジャーリーグの国、米国へ。
  今でこそ、日本で活躍した選手がメジャーに挑戦することは珍しい光景ではなくなったが、1999年といえばイチロー選手も松井秀喜選手もまだ日本におり、当時メジャー入りしていたのは野茂投手や長谷川投手、伊良部投手など、日本で実績を残した一流投手に限られていた。
  常識で考えれば、日本でたった1勝しか挙げられなかった投手がメジャーに挑戦することは、多くの人にとって「無謀」に映ったかもしれない。実際、大家が「メジャーを目指して米国に行く」と言った時、周りの反応は冷ややかなものでだった。しかし、自分の信念で決断をした大家はそれを意に介さなかった。


『日本で1勝の男が、苦難の道を経てメジャーリーグ1000イニング達成』
  米国に渡った大家を待ち構えていたのは、またもや苦難の道であった。英語が分からないのに、通訳もいない状況の中、ボストン・レッドソックスのマイナーチームで、文字通り裸一貫からキャリアを再スタート。マイナーリーグでは、破竹の15連勝を記録し、完全試合も達成した。そして、1999年7月、遂に日本人9人目のメジャーリーガーとしてメジャーのマウンドに立つ。ところが、その後もメジャーとマイナーの間を行ったり来たりする生活を強いられる。いくら調子が良くても契約で守られている大物やベテラン選手が優先される――。契約社会の現実に直面し、辛酸をなめた時期でもあった。
  移籍した新天地モントリオール・エクスポズでは、先発ローテーションの一角を任せられ、2年連続で2ケタ勝利を手に。しかし、またしても新たなる試練が大家に。
  選手として油が乗りかかってきた「これから」という時期に、利き腕に打球を受け、上腕部の骨が3
カ所が砕けるという悲運の事故に遭う。「今季絶望」と報じられる中、シーズン中に奇跡のカムバックを果たしたのは、大家の精神力の強さを物語るエピソードの1つである。
  その後、ミルウォーキー・ブリュワーズに移籍し、自由に移籍交渉ができるフリーエージェント権を獲得。2006年には、日米を通じて日本人最高年俸投手に。翌年、プレーオフへの出場を期待して強豪トロント・ブルージェイズに移籍するも、不振のためシーズン途中に自由契約、つまり解雇されることになる。
  解雇後、メジャー復帰を目指しセントルイス・カージナルスとシアトル・マリナーズのマイナーを転々とするが、シーズン終盤は渡米以来、初めて自由契約(いわゆる「無職」の状態)の身で過ごすことになる。翌年は、シカゴ・ホワイトソックスと契約したが、結局メジャーに昇格することなく、マイナーでシーズンを終えた。しかし、怪我もなくマイナーで好成績を収めた大家は、2009年、クリーブランド・インディアンスからマイナー契約のオファーを受ける。シーズン序盤は、マイナーでスタートするものの、好投が認められ2009年5月28日、2年ぶりにメジャーに昇格した。
  そして、メジャーリーグ通算1000イニング(投球回)にあと1イニングと迫っていた大家は、5月31日の登板で、1000イニングを達成。
  足かけ10年、途中数々の苦難を経験しながら掴んだメジャー通算1000イニング。大家本人とっては、通過点かもしれないが、メジャー球界に大きな足跡を残したことは確かな事実である。

『12年ぶり 日本球界復帰へ』
今季、大家はFA選手としてメキシカンリーグのキンタナロー・タイガースと契約を結び、メジャー復帰を目指した。しかし、チームの不手際によってわずか1週間で一方的に契約を打ち切られてしまった。大家は理不尽な待遇を受けながらも、それに屈することなくメジャー復帰という夢を持ち続けトレーニングに励んだ。
そんな大家の解雇を受け、真っ先に目を付けたのが横浜ベイスターズである。大家自身、もう一度メジャーの舞台に立ちたいという想いと同時に、横浜に恩返しがしたいという強い想いも持っていた。その結果、メジャー通算51勝の右腕は、12年ぶりとなる日本球界復帰を果たすこととなった。

2010年5月2日、ヤクルト戦。大家の姿は、神宮球場のマウンド上にあった。先発投手として試合に臨んだ大家にスタンドからは大きな拍手が起こった。
ファンの後押しも受け、緊張したと語った初回を上手く乗り越えると6回途中までメジャー仕込みの動くボールが冴えわたった。
復帰後初登板にして、1994年4月29日以来、日本では2度目となる「初勝利」。監督やチームメイトをはじめ、多くの人々に笑顔で迎えられた大家は安堵の表情をのぞかせた。
日本ではまだ2勝しか挙げていない大家だが、この1勝が大家ストーリーの新たな1ページの始まりであることは言うまでもない。今後も、私たちの夢と希望をのせて大家は走り続けていくだろう。



『おわりに』
  小学生時代にプロ野球選手を夢見てスタートした野球人生。それ以来、大家の挑戦を支え続けてきたのは、夢を追い続ける気持ちに他なりません。
  大家友和ドリームツアーでは、大家友和自身が大切にする「志を高く持ち、夢を追い続けること」の大切さを子供たちに伝えていきます。











































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